ムーンストーン

ムーンストーン

ムーンストーン――古代寺院の入口へと続く第一歩目の踏み石――は、ブッダの時代のインドが発祥といわれている。シュラーヴァスティのパッバラーマ寺院の床は、僧侶への奉納品として上等で希少な布で覆われていたという。ある裕福な女性が同様の布を奉納したがったが、それを置く場所を見つけられずにいたところ、アーナンダ・テラが彼女に、寺の階段の前にそれらを敷くように頼んだ。それ以来、仏教の礼拝場の第一歩目の踏み石には美しいものが敷設されるようになったのだという。

ムーンストーンには、シンハラ語でサンダカダパハナ(半月の石)、またはイラハンダガラ(太陽と月の石)の呼称がある。古代、太陽は生命・多産・成長をもたらす存在として崇拝の対象だった。

花崗岩あるいは石灰岩で造られた初期のムーンストーンには彫刻は施されておらず、形状も長方形だった。13世紀からアヌラーダプラ時代後期までに、ムーンストーンの形状は半円形へと変わり、重厚な彫刻が表面一杯に施されるようになった。

彫刻を施したムーンストーンのデザインは多種多様ではあるものの、幾分、共通要素が見られる。独特の弧が半円を描き、多くは装飾的な蓮で帰結する。弧や模様の数は各寺や各時代によって様々であり、その故に、各々のムーンストーンが唯一無二の特色のある芸術作品となっている。

全てのムーンストーンが単一の装飾的配置の手法に則っている訳ではなく、より多くの板を用いる場合もあれば、少ない板を用いる場合もある。各々のムーンストーンは、その製作者が、ムーンストーンごとに異なる象徴性、モチーフの様式、そして彫刻細部への精緻な技巧を盛り込んだ分だけ独自性を放って見える。数点のムーンストーン上には碑文が発見されているが、考古学者達は、それらはムーンストーンが何年間も踏み石として使用された後に書き加えられたのであろうと考えている。

ポロンナルワ時代、11世紀のコーラ王朝の治世には、ヒンドゥー教が国内にもたらされ、これ以降に制作されたムーンストーンに雄牛の像は描かれていない。雄牛はヒンドゥー教においては神聖な動物であるため、毎日のように幾多の信者の足に踏まれるムーンストーンの上には、もはやその姿を刻んではならなかったのである。同様に、シンハラ民族を象徴するライオンも、次第にムーンストーンのモチーフからは除外され、これら二種の動物は、寺院や宮殿のコラワク・ガルという欄干の彫刻のモチーフとなっていった。

この時代はムーンストーンが、寺院から、宮殿や当時の他の重要建造物の入口といった、より現世的な場所に敷設されるようになる変遷期でもあった。その結果としてムーンストーンは、建物に入ってくる全ての者に対して、目に美しく、芸術性と洗練性に富んだ歓迎の象徴として敷設されたのである。

ポロンナルワ時代以降、ムーンストーンは様々な形態で登場する。ガンポラ王朝とキャンディ王朝の時代には、三角形のムーンストーンが現れ、そうした形状のものは、キャンディの佛歯寺やデガルドルワ寺院に見とめられる。同心状の筋は消え、蓮が石板の中央に刻まれて、手の込んだデザインのリヤベルという渦巻き状の葉や花に囲まれている。もう一つのバリエーションは完全な円の形状のもので、ホラナのラジャ・マハー・ヴィハラーヤのムーンストーンに見られる。

スリランカの国中で見られる何百ものムーンストーンの中で、審美的な面でも技術の面でも完璧な、最も傑出した作品と見なされている数点がアヌラーダプラのダラダ・マリガワで見られるもので、それらは、アバヤギリのマハセナ王の楼閣、アヌラーダプラのスリ・マハ・ボディヤ、ポロナルンワのワタダゲの北の楼閣への入口において見ることができる。

このようにしてムーンストーンは、建物に入ってくる全ての者に対して、目にも好ましく、芸術性と洗練性に富んだ歓迎の象徴として敷設されたのである。

ムーンストーンはシンハラ芸術の近代的な解釈において用いられ、その象徴性や芸術的な技術は広範囲にわたって研究されてきた。とはいっても、ただムーンストーンに足を置き、発見の旅へと足を一歩踏み出すという個人的な楽しみ方をすることもできるのである。

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